さて、どうしよう。
困ったな。
本当に、困った。
困った、困った。
だが、そう思う彼の顔に全く困惑の色はなく、あるのは喜悦のみ。
くすくすくすくすと、楽しそうに笑いを漏らしている。
そんな彼の、常とは違う様子に、彼女はこくんと小さく喉を鳴らした。
恐る恐る、彼の名を呼ぶ。
「……キ、ラ………?」
怯えを含む震えた声音に、彼は、キラは口の端を吊り上げた。
満面の笑顔だが、何かが違う。
キラは紫の瞳をうっすらと細めて、口を開いた。
「ねぇ、ラクス………」
ささやくように名を呼ぶと、彼女は、ラクスはびくりと肩を震わせた。
その反応に、キラはふむ、と一つ頷く。
困ったな。
本当に、困った。
楽しくて、
楽しすぎて、困った―――――――
錨草
ラクスはこのわけのわからない事態に、ただ戸惑い、混乱していた。
キラの変貌ぶりにも驚いてはいるが、何より。
この状態は、なんなのでしょう…………
心の中で、ラクスは首を傾げる。
背後は壁に、正面はキラに。
ラクスは挟まれていた。
身動き一つとれぬほど、ぎりぎりまでキラの体が迫ってきている。顔と顔など、互いの息を敏感に感じられるほど近い。
ラクスが自由の利くスペースをつくろうと壁に体をそわせても、キラがますます近づいてくるので意味はない。
微動だにできない状態に、ラクスは少しだけ恐怖心を抱いた。
絡め取られたような、錯覚。
手も、足も、全て。
キラの手のうちに収まってしまっているような気がする。
嫌悪では決してないが、畏怖の念がラクスに広がった。
それに反し、キラは実に楽しそうだ。
にこにこにこにこ。
子供のように笑っている。
それがますますラクスの恐怖心を高ぶらせた。
「キ、キラ……私、用事を思い出しましたので失礼しますっ………」
ラクスは、キラを押しのけその場から逃げようと試みる。
しかし。
「駄目だよ、ラクス」
そう呟き、キラは逃げようとしたラクスを背後から抱きすくめた。
華奢な体を、絡め取る。
「逃げちゃ駄目」
「わ、私は別に………」
逃げようとしたわけでは…………
そう言い募ろうとしたラクスは、鋭く息を呑む。
耳元に、柔らかなものを感じた。
「……っ!」
感じたのは、キラの唇。
熱い吐息とともに耳元に口付けされたのだ。
ラクスはかぁっと顔を赤く染めると、じたばたとキラの腕の中でもがき始めた。
「キラ、離して下さいっ」
「嫌」
「キラっ」
ラクスが声を少しだけ荒げた次の瞬間。
キラはラクスを拘束する腕の力を弱めた。
ラクスは驚きながらも、この好機に空いたスペースをつかい、勢いよく体を回した。
キラと向き合う。
腕から完全に解放されたわけはないので、距離は近かった。
上気した頬を隠しもせず、ラクスはまっすぐにキラを見つめる。
「キラ、どうされたのです?いつものキラではありませんわ」
「………」
戸惑いに揺れる空色の瞳を、キラは無言で見つめていた。
そして、にっこりと笑う。
「やっぱり、後ろからより前からの方がいいね」
「え………」
キラの言葉に、ラクスは目を瞬かせた。
きょとんとするラクスに、キラはくすっと小さく笑いを漏らす。
「後ろ向きじゃ、キスはできないからね」
悪戯をする直前のような、子供のわくわくとした表情。
キラは今まさに、そんな表情だった。
「―――――っ」
ラクスは、赤いような青いような顔色になる。
そしてキラの胸を押し、今度こそ逃げようとした。
だが、やはりそれはかなうはずもなく。
「きゃっ」
短い悲鳴と共に、ラクスは抱きかかえ上げられた。
にっこりと笑ったキラの顔が、すぐ近くにある。
「キ、キラ………!」
「ん?」
「は、離して下さいっ」
必死な表情で言うラクスに、キラは柔らかく笑った。
そして
「駄目」
きっぱりと言いきり、べっと舌を出す。
ラクスは口を何度か開閉させると、諦めたように大人しくなった。
キラはくすくすと笑いながら、踵を返し、歩き出す。
行き先は、決まっていた。
この後の予定も、決まっていた。
困った。
本当に困った。
嬉しすぎて、困った。
君を、捕らえられた。
誰よりも、愛しい君を。
もう、離さない――――――――
END
錨草(いかりそう):花言葉『貴方をとらえる』